大山の文化・歴史

納太刀

源頼朝公は平家打倒のために挙兵するにあたり、当社に太刀を納めたと伝えられています。この事柄は民衆にも広く知られるようになり、人々は競って木刀を納めるようになりました。最初期は小さいものがほとんどでしたが、次第により立派な「粋」な太刀を納めたいとの世相が広がり、大きさや造形に力を入れる人が増えていきました。
中には六メートル程もある木太刀(※地下巡拝路に展示中)を納められた事もあります。現在では、この風習を復活させる活動も行われています。

大山詣り

大山は古くから霊山として篤く信仰をされていました。隆盛を極めた江戸期には年間二十万の人々が来山したと記録されています。
当時、民衆の間では伊勢詣りを始め、寺社に参拝することが大流行していました。その中で、江戸の町から二、三日の距離にある大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地としても愛されたのです。大山に参拝した後には江の島などへ行楽する事が人気の行程とされていました。この様子は古典落語「大山詣り」の中にも表されています。
平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。

大山能

近世において、大山では僧侶と山伏との間で争いが続いておりました。この事態を憂慮した時の徳川幕府は、この地に観世流能楽者「貴志又七郎」を派遣し、双方に能楽を習わせ年に二回披露をさせたのです。すると、次第に争いは収まり平和な御山になったと伝えられています。
以来、大山の住人によってこの伝統は守られてきましたが、戦後の混乱と後継者の不足によって大山能は一時衰退をしてしまうことになります。しかしながら、大山能を復活させたいとの声が内外から多く上がり、現在では観世流宗家一門、大蔵流狂言師山本東次郎氏の指導の下、大山能楽社が組織され、日々活動を行っております。また、十月には同じく観世流宗家観世清和氏、山本東次郎氏のご協力の元、大山火祭薪能が催されております。

大山講

現代とは異なり、一人で遠出をする事は大変難しいことでした。そこで民衆は近所同士、あるいは職業同士で団体を作り、「講」として寺社に参拝をしました。現在でも多くの講社が現存しており、主に夏の開山時期に参拝をされております。
その中にも、阿夫利神社三大講社の一つでもあるお花講は、夏山開きには登山道を開門するといった役割を江戸時代から担うなど、多くの風習も残されております。地域によっては講で大山に登らないと一人前として認められなかったという記録も残っています。

両詣り信仰

大山と富士山の両山を参拝する事を指します。大山と富士山の御祭神は、父娘の関係にあたるため、古来より大山に登らば富士山に登れ、富士山に登らば大山に登れと言われておりました。

大山道

大山道は大山街道とも呼ばれ、関東一円に及んでいます。全ての道は大山に通ずと言われたほど発達し、現在でも多くの石碑が残っています。中でも国道246号線は主要な大山道として知られております。大山に詣でる講社や参拝の人々は大山道を通って大山に参詣しました。

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