大山阿夫利神社に残る、願いの歴史
多くの人々に愛され続けてきた
大山阿夫利神社。
その歴史の起源は、
2200年以上前に遡ります。
ここでは、大山阿夫利神社に寄せられた
願いの歴史を、
多数の写真と共に紹介します。
二二〇〇年
以上前
遡ること、2200年以上前。崇神天皇の御代に創建されたと伝えられているのが、大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)です。大山阿夫利神社が鎮座する大山は、山上によく雲や霧が生じたことから別名「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣祈願の霊地として篤い信仰を受けました。山岳信仰としての歴史も長く、祭祀に使われたとされる縄文土器も山頂から発掘されています。
奈良時代
以降
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、平安時代に編纂された延喜式にも「阿夫利神社」と記される国幣の社となりました。当時から阿夫利神社は、人々の心の拠り所として在り続けました。
武家政権下
武家政権下になると、武運長久の祈りの対象として、多くの武士たちの願いが寄せられるようになります。源頼朝公は平家打倒のために挙兵する際、当社に自らの太刀を納めたと伝えられています。後にこの事柄は民衆にも広く知られるようになり、人々は競って木刀を納めるようになりました。これが、今も続く「納め太刀」の起源に当たります。源氏のみならず、足利氏・北条氏・徳川氏など、代々の将軍は当社を信仰したと伝えられています。
江戸時代
江戸時代前後にかけて、阿夫利神社は石尊大権現の名と共に庶民からも篤い崇敬を受け、年間20万人もの参拝者が「大山詣り」を行ったと記録されています。その絶大な人気から山内は賑わい、大山への参詣道は大山街道として整備され、周辺の町の発展にも寄与したとも伝えられています。この「大山詣り」は、古典落語の中で語られた他、数々の浮世絵や伝統芸能の中に息衝いています。
当時から「大山詣り」は、同じ信仰を持つ人々で結成された「講」と呼ばれる集団によって行われていました。大山へ参詣する「大山講」の人々は、地域の五穀豊穣や地域の安全祈願のためにこぞって大山へ参詣しました。一方、宿坊を営む神官は「御師」と呼ばれ、山内の案内役として参詣者の世話や神社への取り次ぎを行いました。阿夫利神社への登拝時には参詣者は山内の滝で身を清め、御師にお祓いを受けて参詣するのが通例とされ、特に開山期となる7月27日~8月17日の期間には山内は大変な賑わいとなったそうです。
また、源頼朝公が起源とされる木太刀を納める「納太刀」の風習はこの頃から行われるようになり、江戸庶民にとって大山詣りを行うことが粋であるとされ、一部の地域では大山へ登らないと大人と認められないというほどの人生儀礼の一つにもなっていきました。そのため大山は「立身出世の山」「諸願成就の山」とも言われるようになりました。
明治以降
明治になると神仏分離令が発布され、全国で神社と寺院を別とする動きが起こりました。こうした背景のもと、阿夫利神社と大山寺は分けられ「石尊大権現」から旧来の「阿夫利神社」に復されることとなり、現在の「大山阿夫利神社」の名称が用いられるようになりました。
また、明治6年には国学者の「権田直助」が阿夫利神社神祇官として招かれ、山内の仕組みをまとめ上げ現在に至る体系を築き上げました。権田翁の山内改革により、「御師」は「先導師」と改称され、時代が転換する中での混乱は治まり、大山詣りの伝統は現在でも引き継がれています。権田翁はこれらの功績から大山中興の祖として敬われました。
大正時代
大正12年9月1日、関東大震災が起こり大山でも大きな被害が出ました。山内では地震の被害の他、大規模な山津波(土砂災害)が起こり、直前で多くの人が避難できたものの多くの家屋が濁流と共に流されてしまいました。当時の様子は、住民により以下のように記されています。
本日午前八時より 大雨沛然と襲来 且つ 雷山方面より 物凄しき
大音響の起こると見るや 山すな大木 大水と共に押し出し 且つ
女坂方面より 大木・石材の 流るる事夥しく 人々 上を下への驚きに
今ははや 生るか・死ぬか・倒るるかの外 何物もな
阿鼻叫喚の修羅場なり 大雨はしきりに至り 大木・石材の流るること
以前として 愈々度を増すのみの 有様なり
夜に入り 大雨壕然 石材・大木の流るる音 愈々はげしく 物凄き有様
たとふるにもなし 今は ただ神仏を念じ 一身の安きを願ふ外
何物もなく あたかも此世の地獄とや云ふべきなり
夜の明くること 待ち遠し
この被害の後、山内を流れる大山川は整備され、現在の大山の町並みへと変わっていくこととなりました。
昭和時代
昭和2年小田急線伊勢原駅が開業し、大山の新しい玄関口となりました。同時期に賑わいを見せていた大山阿夫利神社への参詣の便を図るため、大山観光鋼索鉄道(現在の大山ケーブルカー)の建設が始まり同12年に開通しました。
第2次世界大戦が始まり、都市部での空襲の被害が広まると、大山は学童の疎開地になりました。主に川崎方面の児童が疎開し、宿坊で生活をしていたとのこと。終戦後、国内が復興するに伴い、旅行や登山の流行も相まって大山も再び大いに賑わうようになります。昭和42年には大山が国定公園となり、更に多くの参詣者を迎えました。そして昭和52年、大山阿夫利神社下社の御造営が行われ、現在の下社拝殿が竣工しました。
現代
古来から、時を超えてあらゆる人々の願いに寄り添い続けてきた大山阿夫利神社。現在も多くの人々が参拝に訪れており、大山は賑わいを見せています。さらに、300年以上の伝統を誇る「大山能」や明治時代から続く神楽舞「倭舞」「巫女舞」など、数々の文化が今に継承されています。これからも、大山阿夫利神社の願いの歴史は受け継がれ、人々によって紡がれていくことでしょう。